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IDÉE HOUSE PROJECTの最新情報をお送りするこのページ。
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COLUMN

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06

みどりとくらす
温室 塚田有一   


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【あいだ】
 ゆく夏を惜しむ気持ちと、涼しくなってほっとする気持ち。
 夏と秋のあわいのこの時期は、複雑な心境になる。震災と原発、、、今年の夏は不安で、ヴェールがかかったようだった。遅かった蝉の鳴き声がようやく盛り上がったと思ったら、いつの間にか秋になっていた。夜はもう虫たちの声が占めている。都心でも多様な鳴き声が響き合って、耳に心地いい。
 僕はマンション住まいだが、目の前にお屋敷の杜がある。欅が大きく枝を広げ、椎の木、アラカシ、シラカシの鬱蒼と繁る屋敷林は、日中は風に揺れ、光を乱反射し、木陰を作ってもくれる。でも、夜になると趣をがらっと変える。真っ黒な杜は、見ていると吸い込まれそうな、もしくは何か顔のようにも見えて来たりもする。葉叢の向こうの闇は、異界なのだ。

【両面みどり】
 "みどりとくらす"と言った時、たいていは太陽の下での瑞々しい緑を想像するだろうし、美しい花の色彩を、野菜のボリュームなどを思うだろう。しかし、僕たちが花を見たり、生けたり、鉢物を育てたり、庭の手入れをしたり、ゴーヤを育てたりする時、つまり、自然を引き寄せて、縮小して、生活に取り入れるということは、死とか枯とか影とか負とか腐を一緒に引き受けるということでもある。「かたわれ」がいつも一緒にあるのだ。

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【花、インドアグリーン、庭、、、】
 花は端的なものだろう。
 花は光のように、空間を華やかにするし、花の息吹が空間を生き生きとさせる。しかし同時に儚いもの。生き生きとしているものがやがて朽ちて行く。それを目の当たりにすることになる。
 観葉植物などの鉢物も、其の意味では無味乾燥な空間に異国の情緒を呼び込み、緑の葉は光を変え、独特なフォルムは生命の不思議に触れることにもなる。元気がなくなればそわそわしてしまうだろうし、新芽が吹いたり、へんてこな花が咲いたりすれば嬉しい。

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 庭は、そこに一時佇んだり、手入れをすることで、其の中に埋没できる場所でもある。水が足りないのだろうかとか、土の状態を考えたり、いろんな生き物との格闘や恊働もあり、なにより、そこには生と死の限りないドラマが、とどまる事なく繰り返されているという点で一瞬一瞬の重さを感じさせてくれる。しかし同時にこんなに早く移ろって行く世界で、僕たちも変化を怖れる事はないと、気持ちを落ち着かせてくれたりするものだ。

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【脱却出来る場所】
 スーザン・ソンタグの以下の文章に僕は励まされて来た。『良心の領界』という書物の序で、「若い読者へのアドバイス」として書かれた中の一節をそのまま引用する。

 「動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。決して旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくのだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋め合わせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。」
 僕はこの「庭」をつくりたいのだと思った。生けられた花も場所としての庭になるし、散歩の途中の草むらや、神社の境内や、石垣の苔も庭であるし、畑をただ無心に耕す、そこも庭だろう。自分自身を脱却できる場所としての庭。言い換えれば、自然や、そこにひたぶるに向かうこと、身を任せること、注意を注ぐこと、そんな場所はいつでも「庭」になり、同時に「自身を脱却出来る場所」になりうるのだろう。圧倒的な自然でなくても、ちょっとした場所にそれはある。

【枯れて場所になる】
 「枯れる」は「離れる」であり、その結果水分を失い「軽く」なる。そこには空隙や隙間や空洞ができる。空隙や隙間こそ、新たな命が入る余地だ。七夕の笹や月見の薄、正月の門松にする竹など、茎が空洞になっているものが選ばれているはそのためだ。うつろな部分になにかがやってくる。
 その後訪れるのが、籠り、隠り、忌み籠り、そして子守りとも言われる時間。新生、再生するためのとき。冬に植物は種や球根となったり、新芽が幾重もの皮や暖かい産毛で守られていたり、または卵や蛹が殻で、繭が軽くて丈夫な絹糸で、外からの力に保護されて、その間にふるえながら魂を増やしているように、時がやってくると、羽化し、孵化するために、発芽し新しく生まれるために、また子どもがすくすくと育つように、「こもり」はいのちを育む時なのだ。

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【送ってむすぶ】
 だから枯らしていいと言う訳ではないが、「みどりとくらす」という事は、自然の摂理を知る可能性もあるということだろうし、自分の身体を通して、別の命と寄り添い、その命の終焉とも付き合うという事でもある。もちろん木の方が本来は長生きなので、代々大事にされる盆栽や、僕の知っているお客さんはお父さんから受け継いだ鉢物の棕櫚竹を立派に守っている。でも長く一緒に居れないケースも多いだろう。その時、きちんとその死を送れるだろうか。そしてそのときがやってきたなら、やっぱり「ありがとう」と言って送りたい。
 いずれにしても、食物だったり、花だったり、樹木や果実だったり、いのちを糧に、僕たちは生きている。知らず知らずのうちに、植物好きな人はやっていることではあるけれど、遥かな時に触知するその一瞬に心を傾けられたら、都市でもどこでも「みどりとくらす」ことは深い意味をもたらしてくれると思う。

http://www.limbgreen.jp/
http://openers.jp/interior_exterior/yuichi_tsukada/20110818.html

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house-project@idee.co.jp(担当:佐藤)                  

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